企画展の見どころ

「秩序がなくともピースは成り立つ」世界のための覚え書き2.0
チームラボと日本的想像力の21世紀的展開

評論家 宇野 常寛

猪子寿之率いるウルトラテクノロジスト集団「チームラボ」は情報技術 のスペシャリストたちのチームで、近年はデジタルアート作品を数多く発表している。主催の猪子が掲げるコンセプトは情報技術 による日本的な想像力の再解釈だ。西欧的な遠近法(パースペクティブ)とは異なる日本画の空間把握の論理を現代の情報技術と組み合わせることで、猪子はユニークな視覚体験を提供するデジタルアートを多数産み出してきた。
チームラボの諸作品は日本国内ではインターネット世代の若者層に人気が高く、猪子は同世代を代表する作家として知られている。アジア圏での活動も活発であり、そして伝統的日本絵画をモチーフにしたものが多いことも相まって、安易なオリエンタリズムであると批判されることも少なくない。しかし、私見ではチームラボの作品群はむしろ日本的な想像力、アジア的な想像力をオリエンタリズムから解放する力を秘めている。便利なマジックワードによって神秘化されてきたものを明晰な論理によって可視化し、大胆なアイデアによって挑戦的な表現に結実させているのが猪子寿之とチームラボの活動だと言えるだろう。

一般的に大和絵などの日本の古典的な絵画には西洋におけるパースペクティブのような論理構造がなく、それゆえに平面的であるとされている。しかし、猪子はそうではなかったのではないかと仮定する。西洋的なパースペクティブが、人間の視覚が認識する像そのものではなく、人間の脳が蓄積した過去の情報を呼び出して補完することで成立する空間認識のひとつの方法であるように、日本画の図法の背景にも同様の、しかしまったく異なる空間把握の論理構造があるのではないか。このことから、猪子は自身の理解する(仮定する)日本画的空間把握を「超主観空間」と呼んでいる。

<しばしば、伝統的な日本美術については,日本には西洋の遠近法(パースペクティブ)がなかったので、平面的に描いていたのではないか、といわれます。しかし、当時の人々には、世界は、日本美術のように見えていて、だから、そのように描いていたのではないだろうか?と、チームラボは、考えています。そして、現代人がパースペクティブな絵や写真を見て、空間だと感じるように、昔の日本の人々は、日本美術を見て空間だと感じていたのではないか?つまり、日本美術の平面は、西洋のパースペクティブとは違う論理が発達した空間認識だったのではないだろうか?と、考えています。そして、この日本の空間認識を、チームラボは、『超主観空間』と名付けています。(チームラボ公式ウェブサイトより)>

この「超主観空間」をインスタレーション作成のための論理として用いるため、猪子はコンピューター上の3D空間に人物やキャラクターなどの立体オブジェクトを配置し、その仮想空間全体を彼の仮定する日本画的空間把握の論理構造に基づいて平面化していく。猪子の一連の試みは、非論理的な記述法(画法)と考えられている日本画的な空間把握のそれを定式化する巨大なプロジェクトであり、同時に日本的なものをオリエンタリズムから普遍的なものへ解放する試みでもあると言えるだろう。

では、猪子の考える日本画的空間=超主観空間の論理とは何か。中心軸を通して一点からの視界が想定される西洋的パースペクティブは見るものと見られるもの、自分と世界との境界線を仮定する。対して、猪子によれば日本画的空間認識においては絵を見ている鑑賞者と絵画の中の登場人物の見ている視界にはほとんどズレがない。見るものと見られるもの、主客が完全に切断される前者に対して後者は見るものが見られるものの中に同一化し得る。それがチームラボが彼らの「実験」(作品制作)の中で発見した超主観空間の性質だ。

<さて、昔の日本人は,大和絵のように世界が見えていた(認識されていた)と仮定して、そして今、大和絵を見ていて、絵の中の登場人物になりきったとき、パースペクティブと異なり、見えている風景はほとんど変わりません。絵を見ながら絵の中の登場人物になりきっても、そのまま絵を見続けることができるのです。そのため、絵を見ながら、絵の鑑賞者が絵の中に入り、絵の中を自由に動くことができるのです。(同)>

パースペクティブは主体と客体、現実と虚構の境界線は明確な二元論的な世界観であり、超主観空間はこれらの境界の曖昧な一元論的な世界観を構成する。こうした猪子の発想は非常にオリジナリティの高いものだが、同時に伝統的な日本文化論と親和性が高い。両者の差異は西洋と日本との自然観の差異としても表れていると言えるだろう。たとえば近松門左衛門の虚実皮膜論は虚構(主観)と現実(客観)との境界線の消失と、その消失点の操作に鑑賞者への訴求力が宿ることを主張したもので、猪子が絵画表現に対して行った発見を物語表現に対して行ったものだと言うこともできるだろう。また、生活空間である都市と、自然空間である森林や草原との間に明確に境界線を引き人間の住む世界とそうではない世界とを明確に区分する西洋と両者の混在する日本と自然観の差異は広く知られている通りだ。

猪子はしばしば自身の主張する「超主観空間」のより身近な、そして現代的な例として80年代を代表するコンピューター・ゲーム「スーパーマリオブラザース」の画面設計を挙げる。同作は1985年に「ファミリーコンピューター」の世界的ヒットを通じて家庭用コンピューター・ゲームを牽引した任天堂の代表作であり、史上もっとも売れたゲームソフトの一つである(累計4000万本超)。同作のプレイ中、私たちはマリオがジャンプすべき場所を理解するために世界を客観視しつつも、同時にマリオになりきっている。これを可能にしているのが、日本画とも通底する日本的な空間把握の論理であると猪子は主張する。なぜならば猪子の主張する超主観空間とは、簡単に表現すれば絵を客観的に把握しながらも、絵の中の登場人物になりきって、彼/彼女の視点から絵を眺めることができるものであるからだ。
もちろん、同作が採用している横スクロール画面は必ずしも日本独自のものではない。しかし、「スーパーマリオブラザース」という日本発のソフトが横スクロールアクションゲームのエポックメイキングとして世界の市場を席巻したことは間違いない。(また同時に、欧米のコンピューター・ゲームにはFPSなどの一人称視点の作品が支配的であるのに対し、国内のRPGやアクションゲームは「スーパーマリオブラザース」の流れを汲む三人称視点のものが支配的であるという傾向も指摘できるだろう。そして前者はパースペクティブ的な、そして後者は日本画的空間認識に近い。)横スクロールが代表するある種の空間把握の理論がもっとも卓越し、そしてその快楽を享受する文化空間を育んできたのが日本である、というのが猪子の主張、というか仮定なのだ。だとするとチームラボの全ての作品は、日本画からスーパーマリオまでを貫く空間把握の論理が、パースペクティブが代表する西洋的な美の基準を更新する、あるいは対抗し得る、もうひとつの美の基準を構築するための壮大な実験であるとも言える。

さて、ここで私が注目したいのはチームラボの作品群における私たち、つまり鑑賞者の視点の問題である。自身の作品を「スーパーマリオブラザース」に例える猪子だが、だとすると彼の主張する日本的想像力は日本画的空間認識(超主観空間)と、キャラクター的感情移入装置(マリオと彼をコントロールするインターフェイス)によって構成されていることになる。
チームラボの諸作品とはすなわち日本画的空間(超主観空間)把握の理論を情報技術で証明するプロジェクトである。猪子が頻繁に自作解説の例に挙げる「スーパーマリオブラザース」の分析は、超主観空間に匹敵するもうひとつの日本的想像力の本質を露呈させる。それがマリオ、つまりキャラクターの問題に他ならない。チームラボの諸作品にはキャラクターが、つまり「マリオがいない」のだ。
日本的想像力――大和絵からスーパーマリオまでを貫く旧くて新しい想像力をアップデートするチームラボの作品からは、その車輪の両輪とも言える二つの要素、つまり超主観空間(横スクロール画面)と依代=キャラクター的感情移入装置(マリオ)のうち、後者が排除されている。
たとえば江戸中期の画家・伊藤若冲の作品をモチーフに用いた「Nirvana」には無数の動物が描かれているが、独自のリズムで自律的に動き続けるこれらの動物たちは自然そのものとして描かれている。あるいはこれらの動物たちは人工知能によって自律する本来の意味での「ロボット」であり、鑑賞者の依代として機能する乗り物としての「ロボット」からはほど遠い存在だ。ここには私たちが作品世界の中を旅するための分身=マリオというキャラクターは存在しない。また、「源氏物語」「古事記」などにモチーフを求めた「花と屍 剝落 十二幅対」でも設定上、主人公とされている光源氏の存在を画面上に確認することは極めて難しく、シーンによっては何の説明もなく登場しなくなる。そう、猪子は絵巻物仕立ての作品でさえも、キャラクターを排除する。いや、より正確にはキャラクターを通じた物語への感情移入という回路を用いないのだ。猪子の用いるキャラクター群は日本的な依代としての機能を奪われている。そう、彼らの作品はマリオのいないスーパーマリオブラザースのようなものなのだ。

ではここで、日本の文化空間におけるキャラクターという回路について考えてみよう。
たとえば日本のアニメーションはロボット兵器が活躍するアニメ作品(ロボットアニメ)が大きく発展していることが知られている。「鉄腕アトム」「鉄人28号」「マジンガーZ」「機動戦士ガンダム」「新世紀エヴァンゲリオン」など、国際的にも高い評価と知名度をもつこれらの作品群は、日本のアニメブームの中核としてシーンを牽引してきた。しかしこれらの作品に登場する人型機械の中で、厳密に「ロボット」と言える自律的な人工知能をもった存在が登場するのは最初期の「鉄腕アトム」だけである。以降の作品に登場する人型兵器は基本的に少年パイロットが操縦するリモコン兵器や乗り物に過ぎない。日本のロボットアニメにおける「ロボット」は厳密にはロボットではなく、ただの道具なのだ。これらの人型兵器はたいてい主人公の少年の父親や祖父(科学者や軍関係者と設定されていることが多い)が開発し、その操縦者に主人公を指定する。そして、主人公は鋼鉄の、巨大な身体を得て悪と戦い自己実現を果たすのだ。要するに日本におけるロボットアニメとは人工知能の夢を描いたファンタジーではなく、かりそめの巨大な身体を得て、大人社会に加入し自己実現を果たす男子児童の成長願望充足に根差したファンタジーなのである。
ここで重要なのはなぜ、日本人は男子児童の成長願望に応えるファンタジーを描く際に、かりそめの巨大な身体、依代を必要としたのかという問いだ。おそらく、ここには、日本における社会参加のイメージについての大きな問題が横たわっている。

たとえば、戦後日本最大の思想家と言われる丸山眞男は、大戦期の日本社会の分析を通じて、日本という文化空間における市民の主体的意識の欠如を指摘している。
先の大戦において、日本が無謀な開戦と戦争継続を選択していったとき、日本の軍部には明確な戦争指導者は存在しなかった。そこに存在していたのは「空気」ともいうべき、ボトムアップの、それも暗黙の合意形成であり、そのため当時の日本軍は誰も責任者としての自覚のないまま、急速に戦争になだれ込んでいったのだ。丸山は、社会的なコミットメントの責任を決して引き受けることのない「無責任の体系」ともいうべきものが日本社会を支配していることを指摘した。
「無責任の体系」が機能する日本社会においては、実際には個々のコミュニティにおける暗黙の了解(文脈)によって合意形成がされているのだが、しかし、その結果、責任の所在が明確にならない。正確には責任の所在を曖昧化することでスムーズな合意形成を行っている。こうした「無責任の体系」を制度化したのは戦前の天皇制であると考えられる。実際はコミュニティの「空気」、つまりコミュニティ内部でのボトムアップ的な合意形成が意思決定を担っているにもかかわらず、その責任の所在を曖昧化するために天皇というキャラクターが方便として用いられるのだ。
こうして考えたとき、なぜ、戦後日本人が児童文化としてのロボットキャラクターに、なぜこのように奇形的進化を求めたのか、その理由も明白になる。日本人の社会参加とは、常に自分より巨大な何か(実在していなくともよい)と同一化することで果たされるものなのだ(究極的にはそれは天皇である)。そうすることで日本人は主体的に振る舞うことの責任を回避できる。前述のロボットアニメ群が常に少年が扱うには強すぎる力=ロボット兵器の戦闘力に戸惑うエピソードが挿入されるのはそのためである。

しかし、こうした「無責任の体系」と丸山が呼んだ社会参加のイメージが強く機能しているからこそ、日本社会は高い治安と効率的な合意形成ができていたとも言えるだろう。この効率的な合意形成のメカニズムは、社会の均質化と個人の無責任化をもたらす一方で、ボトムアップの自然秩序とクリエイティビティの生成にもつながっているのだ。
たとえばトヨタ自動車の生産方式の特徴を示す概念、「カイゼン(kaizen)」=「改善」は、主に製造業の作業現場で行われている作業の見直しを指す。経営陣からトップダウンで指示されるのではなく、作業効率の向上などを現場の作業者がボトムアップで継続的に問題解決をはかっていく点に特徴がある。これは「無責任の体系」とコインの裏表的に発生する均質的なメンタリティをもつコミュニティと、そこで効率的に行われる合意形成を利用したボトムアップの集合知集約システムと言える。 あるいは初音ミクが代表する「V O C A LO ID (ボーカロイド)」を応用したデスクトップミュージック(DTM)群の発展にも同様の効果が指摘できる。メロディと歌詞を入力することで、声優からサンプリングされた合成音声による女声ボーカルやコーラスを作成することができる本製品は、これに図像を付与してバーチャルアイドル「初音ミク」というキャラクターを構築した。さらに、動画共有サイト「ニコニコ動画」上でユーザーが初音ミクで制作した楽曲や公式のキャラクター図像をアレンジした視覚作品等を自由に発表・流通できる環境が成立した。ここで初音ミクという疑似人格=キャラクターが人気を集めることで、現在では10万曲以上の楽曲・動画がネットサービス上に投稿されており、インディーズ音楽の一大市場を形成している。ここでは初音ミクなどのキャラクターを経由することで、日本人のコミットメントを誘発し、さらにニコニコ動画の半匿名のコミュニティと結合することで、効率的な集合知によるクリエイティビティを発揮させることに成功したと言える。
日本社会を支配する「無責任の体系」は、近代国家として未成熟な政治文化をもたらし長く日本社会の発展を阻害しつづけてきた一方で、集団主義的クリエイティビティの発展には大きく寄与してきたとも言える。そしてその根底に存在する日本人の、自分より大きく偉大な存在と同一化し、依代を得ることではじめて社会にコミットするという感性が、もっとも具象化したものが、前述のロボットアニメ群に登場する人型兵器や初音ミクが代表するキャラクター文化だと言えるだろう。日本人は天皇から初音ミクまで常にキャラクター(的なもの)を介して社会にコミットメントをしてきた民族なのだ。

私見では猪子寿之という作家のクリティカル・ポイントがここにある。日本的想像力は日本画的空間把握とキャラクター=依代的な感情移入装置によって成り立っている。しかし猪子は前者を発展させるその一方で後者を解体しようとしている。つまり自然状態では結びついている両者を切断するところに猪子の作家としての欲望が存在していると言えるだろう。猪子は超主観空間という造語を用いて、未だ定式化されていない日本画的な空間把握に論理を与える一方で、キャラクター=依代的な感情移入の回路を破壊しようとしている。これは日本の文化空間における極めて知的な介入に他ならない。

ではチームラボの作品において、私たちが感情移入すべき対象=マリオはどこにいるのか。チームラボのプロジェクトが現代の情報技術による超主観空間のアップデートであり、そして超主観空間の特長が絵の中の登場人物=キャラクターに、つまりマリオになりきることができることであるとするのなら、チームラボ作品はなぜマリオを排除するのだろうか。そして排除されたマリオの機能は現代の情報技術によるアップデートによって、他のかたちで担われているのだろうか。
結論から述べれば、ここでマリオとして機能するのは私たちの身体それ自体だ。
猪子寿之とチームラボは内外で遊園地やショッピングモールに設置されるデジタル・アトラクションの制作者としての側面をもつが、チームラボの作品における「マリオ」の所在はこれらのエンターテインメント作品、及びこれらのノウハウを応用したアート作品を参照すると明確に浮かび上がってくる。

たとえば「What a Loving, and Beautiful World / 世界はこんなにもやさしく、うつくしい」について考えてみよう。同作は壁面に投影された漢字に、鑑賞者の影が触れることでアニメーションが動き出すインタラクションだ。

<映っている世界の裏側には、360度広がる空間があり、文字から生まれたものたちは、空間上のそれぞれの位置や、それぞれが持つ知能や関係性、物理的な影響などによって、互いに影響を受け合いながら、空間上でリアルタイムに計算され、複雑かつ、自然なアニメーションをつくっています。例えば、風が吹けば、風の物理的な影響を受けますし、蝶は、火が嫌いだけれども、花が好きで、花に近づいていきます。自然の景色に同じ瞬間がないのと同じように、作品の瞬間瞬間は、二度と見ることはできず、常に初めて見る景色を創り出します。(同)>

私が同作を鑑賞したのは2014年3月の国内初の大規模な展覧会「チームラボと佐賀 巡る!巡り巡って巡る展」でのことだった。同作品は家族連れ、特に子供たちに人気で、開場時間の終りが迫っても子どもたちはその作品から離れようとしていなかった。
「スーパーマリオブラザース」において、私たちの操作で決定されるモニターの中のマリオの行動がその世界に変化をもたらすように、「What a Loving, and Beautiful World / 世界はこんなにもやさしく、うつくしい」では、子どもたちの一挙一動が無限のパターンのアニメーションを生成し、世界を変化させることになる。自分の一挙一動が、世界を少しずつ、そして絶えず変化させていく。これは生活世界においては当たり前のことだが、それを、巨大な規模と複雑さを持つ社会で実感するのは難しい。そんな失われた感覚を、この作品は極めて直接的に、そして繊細に実感させてくれる。(特に戦後の)日本人が、依代=キャラクターを通して行ってきた世界への関わり方を、猪子は情報技術を駆使して生身の身体で体験させるのだ。猪子は横スクロールマップ=日本画的空間把握で記述される世界に、観客の身体をそのままマリオとして送り込む。そしてそのことで依代=キャラクター的なものを解体しようとしているのだ。
さらに同会場に設けられた「メディアブロックチェア/Media Block Chair」はまさに、「スーパーマリオブラザーズ」におけるブロックそのものだと言える。
要するに猪子は「スーパーマリオブラザーズ」の横スクロール画面は自分のものにできているが、マリオというプレイヤーの分身については扱えていない。しかし、私が佐賀で目にしたのは、夢中でブロックを積み、文字と戯れる小さなマリオ子たちの姿だったのだ。凸の面が3面、凹の面が3面からなるキューブ型のブロックであり、照明器具であり、イスでもある。凸の面と凹の面をジョイントすることで、ブロックの色が変化する仕組みだ。そこで子どもたちは、有性生殖の論理で変化するブロックと戯れることで、世界の変化を実感する。ここで猪子は依代=キャラクターを用いることなく、横スクロールマップ=日本画的空間把握で記述される世界を旅することができる空間をここに作り出したのだ。猪子の試み――キャラクター=依代的感情移入装置の解体の果てにあるものは、いわば私たちの身体それ自体をマリオ化する試みに他ならない。

主客が、つまり見るものと見られるものとの間に明確な切断線が存在するパースペクティブは、個人が主体的に社会(対象)と契約を結ぶ社会契約モデルの比喩として機能する。しかしその一方で、主客の境界線の存在しない絵自体を客観視しながらも、絵の中の登場人物の視線と同一化できる超主観空間では主体と客体の境界線は曖昧になる。この曖昧な状態で個人と世界(社会)とを結ぶ回路として、日本人は(猪子の言葉を借りれば)「秩序がなくともピースは成り立つ」ための知恵を発展させて来た。それが、たとえば連歌であり、カイゼンであり、そして天皇制だった。これらの知恵は日本の文化空間が非主体的な合意形成の回路として、ひたすら発展させてきた装置であった。キャラクターという回路もまた、こうした回路のひとつだ。実際には存在しないものをさも存在するかのように、そのコミュニティの内部で扱うことによって機能する感情移入装置、それがキャラクターなのだ。日本画的空間を殺すことなく、人々を(キャラクター=依代を介すことなく)その世界に没入することは可能か――猪子寿之の抱えるテーマはこう言いかえることも可能だろう。
ではなぜ、キャラクターは解体されなければならないのか。キャラクターを介すことなく、直接世界に没入する体験を猪子は提供し続けるのか。

それはおそらく、キャラクターという回路が戦後社会において、プリミティブな姿を失い奇形的な発展を遂げた回路だからではないだろうか。キャラクターという回路は先の大戦における決定的な敗戦によって、奇形的な、そして爆発的な発展を遂げたものだ。戦後の文化空間とそのねじれは、仮想現実の中で成熟を仮構する役割をキャラクターという回路に与えた。戦後民主主義という建前(戦うことを禁じるという建前)と、アメリカの核の傘という現実(後方から核抑止に加担することで得られる平和と安定)の共存がもたらしたもの――それは現実世界での成熟(社会にコミットし、ときに手を汚し、その責任を負うこと)を拒否したままその身体だけ大人になってしまった「おたく」たちと、彼らの似姿である美少女キャラクターやロボットキャラクターだった。ネオテニー的身体をもつ美少女キャラクターと、少年の成熟を仮構するかりそめの機械の身体としてのロボット――。
先の敗戦がもたらした、強く大きくあっては「いけない」という呪詛、平和憲法のもと醸成された、徹底して個人的であることが逆説的に公共的であるというアイロニーは、一般的な成熟を拒否するからこそ真に倫理的な成熟を遂げることができる(成熟しないことこそが真の成熟である)とされる文化空間を成立させた。それが戦後期における「おたく」文化の世界だ。
おたく文化におけるキャラクターが戦後期に強力な感情移入装置として発展したのは、その性的なコンプレックスに根ざした感情移入のメカニズムが、戦後の文化空間に発生したマチズモ、近代的男性主体のナルシシズムをいびつなかたちでしか成立させない構造と深く結びついていたからだ。その結果、キャラクターは戦後期において「無責任の体系」に慣れ親しみ、主体的な自己決定を忌避する日本の文化空間において、主体化を仮構してくれる回路への憧れとして市場で支持され、そして「秩序がなくともピースは成り立つ」ための装置として発展していった(その究極形が初音ミクである)。
そう戦後の「おたく」的なキャラクター文化とは、責任を取り得る主体的な自己形成を拒否しつつも、アイロニカルなかたちで仮構してくれる回路として両義性を帯びているのだ。そしてチームラボの示す方法、すなわち自身の身体をマリオ=キャラクターと化す方法は、情報技術を背景にキャラクターという回路のもつ戦後的「ねじれ」を消滅させ、よりプリミティブなかたちで超主観空間への没入を可能にするものだ。

戦後期のキャラクター文化がその主体形成にかかわるナルシシズム(特に性的な想像力にまつわるもの)に介入することで可能にしていた感情移入の回路を、猪子は情報技術によって代替する。これは言い換えれば近代文学や映画、あるいは美術がもっていた近代的な主体とその内面に介入して、情報技術に代替させているということでもある。猪子は、情報技術を駆使して私たちの身体それ自体をマリオと化することで、近代的な芸術と人間の内面の関係の更新を試みているのだ。 それは同時に戦後的な自意識から日本的な想像力を解き放つ知的冒険でもあるはずだ。その冒険の行く先は、日本の古層でもあるだろう。チームラボは、現代の情報技術を用いることで「超主観空間」と「依代(キャラクター)的感情移入装置」を産み出した(「秩序はなくともピースは成り立つ」)日本的想像力の起源を探るべく、日本の古層へ潜っていくのだ。

猪子は日本的な想像力の両輪である日本画的空間把握を極めて本質的にアップデートする一方で、依代=キャラクター的な回路を、決定的に解体しようとしている。こうした日本的想像力への批評的介入への意思を象徴的に、ビジュアルイメージとして表現したのが本展のマスターピースと言える「追われるカラス、追うカラスも追われるカラス、そして分割された視点/Crows are chased and the chasing crows are destined to be chased as well, Division in Perspective - Light in Dark(work in progress)」だろう。
同作はアニメーター板野一郎が『伝説巨神イデオン』や『超時空要塞マクロス』のドッグファイト描写の作画で確立した「板野サーカス」へのオマージュだ。日本画的空間把握で記述されたデフォルメ空間を用いた板野の手法を三次元空間で再現することによって、自由に視点を広げ、実際の空間として再構築することを試みている。
群れの中から飛び立つカラスと、それを追うカラスたちは互いにすれ違い、そして衝突し、華となって散華していく。猪子は死のダンスをダイナミックに、そして冷たい美しさをたたえたものとして描いた。鑑賞者の多くは最初に飛び立つカラスにまず視点を置き、主人公として感情移入を試みる。しかし板野サーカスの展開の中で瞬く間に僕たちはそのカラスを見失い、他のカラスと区別がつかなくなる。そして最後には最初に飛び立ったカラスもまた、自然死を迎え、華となる。猪子はここでも僕たちが自分ではない何かに仮託して世界にコミットするという感覚を拒否している。そして、むしろキャラクター的なものが解体されてしまう無常な世界に美を発見している。カラスたちが死んで華となってゆく過程は、すなわち私たちがキャラクターを介すことなく直接世界の一部に同一化していく過程でもある。
猪子はロボットアニメの手法――つまり、キャラクターを動かすために発達した板野サーカスの手法を、キャラクター的な感情移入装置を解体していくために用いているのだ。猪子はここでカラスたちの生と死を通して私たち自身の身体をマリオと化すことの快楽を、すなわち世界の一部に同一化する快楽を描いているのだ。

猪子寿之は現代の情報技術を駆使して、日本の古層に潜ってゆく。そうして得られた想像力で、私たちに世界に同一化する快楽を提示する。ではその快楽の先に待っているものは何か。
「秩序がなくともピースは成り立つ」――本稿では猪子のこの言葉を猪子寿之とチームラボの諸作品のコンセプトを表すものとして度々引用して来た。
そして周知の通りこの言葉はチームラボの代表作のタイトルでもあり、このプログラムの着想のもととなったのは前述した猪子の出身地である徳島の伝統的な踊り「阿波踊り」である。

<日本には「阿波踊り」という、いつからあるか定かではないくらい昔からある、非常にプリミティブな踊り祭りがある。その祭りでは、各自がおのおの踊る集団を作り、集団で楽器を奏でて街中で勝手に踊り歩く。各集団は好きなように奏でながら、好きなように踊り歩くのだが、なぜか、街全体で音楽に調和が生まれている。それは、踊り歩く中で、たまたま出会った集団の音楽のテンポに、互いの集団が無自覚にだんだん合わせていくということで成り立っている。そこには、ルールがあるわけではなく、ただ体が気持いいからという理由で無自覚に行われているのだ。(チームラボ公式ウェブサイトより)>

また、チームのラボの近年の代表作である東京スカイツリーの壁画は、全長約40m、高さ約3mの壁画である。圧倒的な情報量を持つこの巨大な絵画(一部アニメーションを含む)はすべて手描きであり、したがって膨大な人数のクリエイターが制作に参加した。しかし、同作に参加したクリエイターの一人一人は絵の全体図を知らされていなかったという。しかし、超主観空間の論理に基づいた図法で描かれたこの絵の制作過程においては、各々の絵描きが自分の担当範囲をばらばらに描くだけで矛盾なく調和のとれた壁画を描くことができる。ここにも猪子が主張する「秩序なきピース」が成立している。

「秩序がなくともピースは成り立つ」――高いクリエイティビティを発揮する日本的なボトムアップの合意形成の生むハーモニー――これが猪子寿之とチームラボの壮大な実験の目指すものに他ならない。そのため彼らは定式化された日本画的空間=超主観空間の論理と現代の情報技術を用いたその応用を試みるのだ。

同作は無数のホログラムによるインタラクティブ・デジタル・インスタレーションであり、ホログラムで映し出された人間や動物(妖怪?)など無数のキャラクターたちが楽器を奏でたり踊っていたりする。これらのキャラクターたちはおのおの自立しているのだが、ここにはオーケストラの指揮者のような指導者もいなければ、全体の動きを統率する中心的な奏者/ダンサーは存在しない。しかし「彼ら」は別のキャラクターの演奏/ダンスに影響を受けており、しばらくすると自然と調和が生まれている。まさに、「無責任の体系」を逆手に取った「空気を読み合う」ことで成立する調和を再現するプログラムが、このインスタレーションを支えているわけだ。
猪子は、同作を自らこう解説している。

<そして、人々は、解放されそこに一切の秩序がないように感じるにも関わらず、非常にピースな体験をする。そんな体験から、昔の人々は、もしかしたら、今とは違った方法で、ピースを成り立たせていたのではないかと思うのだ。
現代、インターネットによって、人々は好きな人々と勝手につながっていくことが加速され、結果的に、世界中が互いにつながっていっている。人々にとって、互いにつながっている者同士の影響がもっとも大きくなってきている。そんな新しい時代で感じていることが、プリミティブな踊り祭りでの体験とリンクし、新しい時代は、今とは違った方法論でピースを成り立たせられるかもしれない。そんなふうにまで思ったのだ。(チームラボ公式ウェブサイトより)>

「ピースを成り立たせる」ための「今とは違った方法論」とは何か。これが本稿における最後の問いだ。
それはパースペクティブではなく超主観空間に基づいたピースの実現だ。日本人は「秩序がなくともピースは成り立つ」世界を維持するために、日本画的空間把握の理論と依代=キャラクター的な感情移入装置を発展させてきた。しかし、その成果をただ継承するだけではたぶん、ダメだ。なぜならばその反作用として、「無責任の体系」という前世紀でもっともピース(平和)に反する行為をもたらした社会構造を内包することになったからだ。
日本人は自分たちの方法論を、社会を巨大化し、近代国家を形成する中で、ボトムアップの合意形成のメカニズムをうまく使えなくなってしまった。その結果、「秩序はなくともピースは成り立つ」素敵な方法論はただの「無責任の体系」になってしまった。そして、その結果引き起こしてしまった戦争に敗れて、70年がたった今、猪子はもういちど日本的な想像力のアドバンテージを用いて、西洋とは異なった「ピース」の実現方法を模索しているのだ。
したがって、「今とは違った方法論」は「秩序はなくともピースが成り立つ」「超主観空間」のものでありながら同時に、キャラクターに依存せず私たち自身が世界にコミットする(そしてその責任を担う)ものでなければなならない。超主観空間が可能にするボトムアップの合意形成(秩序なきピースの生成)を実現しつつも、キャラクターへの依存が産み出す無責任の体系を回避すること、自らのコミットメントとその責任を引き受けることでなければならないだろう。それは一見、強い自覚と内面の成熟を要求するように思える。しかし、それは違う。猪子がここで提示しているのはもっと幸福なイメージだ。私たち自身の一挙一動が、世界の一部として全体の運動に関与しているという実感を取り戻すこと。それが「今とは違った(ピースを実現するための)方法論」なのだ。
パースペクティブ的な、西洋近代的な「秩序があってピースが成り立つ」世界では、人々は成熟した内面をもつ市民となり、その責任に自覚的になることではじめて社会契約を結び世界形成に参加することができる。対して超主観空間における世界へのコミットメントは、私たち自身が世界(社会)の一部にいつのまにか組み込まれて行くメカニズムだ。このメカニズムを、近代国家級の大規模で実装した際の反作用として発生したのが「無責任の体系」だ。そして猪子は、このメカニズムの中の依代=キャラクターという回路を解体し、最新の情報技術でその機能を代替させることで、私たちを媒介なしに直接世界に触れさせようとしている。このとき私たちは、いつの間にか、無自覚に世界の一部に組み込まれていて、そして自らの一挙一動が世界の変化に関与することを自然と受け入れるだろう。そこには近代的な内面の成熟と社会契約的な決断は存在しない。ただ幸福な世界との調和のイメージだけがそこに提示されるのだ。それは同時に、近代的な内面への介入を前提とする「文脈のゲーム」と化した現代アートの潮流に対して、鑑賞者の感覚に直接的に訴えかける「原理のゲーム」ともいうべきものでもあるだろう。

<作品に出てくる登場人物は、鑑賞者自身が作品世界に入り込み登場人物になりきってもらうために、具体的な誰かではなく、誰でもない誰かを表現している。そして、その体験によって、まるで未来において誰しもが、今とは違った方法論によってピースを成り立たせられる世界へといけるのではないか、と感じてもらえればと思う。(同)>